(その1)

ウィーンの旧市街区、通称1区を取り巻いている幅50m、全長4kmのリンクシュトラッセ(環状通り)は、かつての城壁跡を道路にしたもので、その西側の一辺にネオヘレニズム様式の国会議事堂、ネオゴシック様式の市庁舎、ネオルネッサンス様式のウィーン大学本館が数珠つなぎのように並んでいて、ウィーン観光の名所の一つになっています。

そのウィーン大学本館の右側にショッテントーアという市電の駅があり、その地下の駅から37番、38番、40番、41番、42番の市電がヴェーリンガーシュトラッセという、ウィーンではかなり名の知られた通りを北西に上がって行きます。上がって行くというのは文字通り、この通りは始発のショッテントーア駅を最低点としてゆるい勾配の坂道になっているからです。

そして、その最初の駅がシュバルツシュパーニャシュトラッセといって、同名の全長200mばかりの通りが左から交差しています。この短い通りのちょうど真ん中辺り(15番地)にある建物の壁に、ウィーンで記念碑または記念館を表示する赤、白、赤の旗が通りに突き出すように掲げられています。そしてその右側にベートーベンの頭部のレリーフ像が貼付けられていて、その説明にこの家でベートーベンが1827年3月26日に亡くなったと記されています。しかし、この家はその後持ち主が代わり、1904年に改築されて今はベートーベンの名残りのものは何一つ残っていません。ただ壁にこうして記念碑が掲げられているだけです。

さて、通りを再びヴェーリンガーシュトラッセに戻って更に1駅行くと、右側に折れる道が出て来ます。ここで市電の37番と38番は右に曲がってヌスドルファーシュトラッセという通りに入って行きます。そして、その54番地、駅でいうと曲がって1駅目を降りて20mばかり行ったところにある家の壁にまた赤白赤の旗が掲げられています。ここはシューベルトが1797年1月31日に生まれた家です。現在記念館となっていて、シューベルトの肖像画の特徴の一つとなっている、あの華奢なフレームを持つ眼鏡が両方のガラスとも横真一文字に割れた生々しい姿で展示されています。夏にはこの家の中庭でシューベルトの作品を集めたコンサートが開かれています。

ところで、先程の最寄りの駅で降りないで38番に乗って終点まで行くと、ホイリゲが立ち並ぶ有名なグリンツィングに到着します。遊び好きだったシューベルトも友だちと一緒に夜な夜なこの辺りを徘徊していたそうです。市電の37番は途中で分かれていて、ベートーベンが交響曲第3番を作曲した通称「エロイカハウス」の前を通って、ハイリゲンシュタットの町を見下ろすホーエバルテの丘で引き返します。

さて、通りを引き返してヴェーリンガーシュトラッセまで戻り、先程右にまがったところを曲がらないでまっすぐに1駅行くと、ウィーンのオペレッタの殿堂、フォルクスオパーがあります。番地は78番地に当ります。市電の42番はここで左に曲がってヴェーリンガーシュトラッセを離れて行きます。一方、40番、41番に乗って更に1駅上がると我がウィーン カルチャーサービス(略してVCS社)の、最寄りの駅クッチュカーガッセに到着いたします。弊社はヴェーリンガーシュトラッセ99番地にあります。ここから通りに沿って歩いて5分ばかり、距離にして300mほど上がって行くと、左側にシューベルト公園があります。さぼど大きな公園ではありませんが、中にブランコ、滑り台、セメント張りのバスケットコートなどがあって、近所の子供達が時を忘れて終日走り回っています。

そして、その公園の中程、公園の正面入り口から見ると、ちょうど真ん中辺りの左端にひっそりと並んで横たわっている2つの墓があります。左側の墓は1827年3月26日に亡くなったベートーベンの遺体が、ヴェーリンガーシュトラッセの沿道に沿って立ち並ぶ群集の人垣をぬって運ばれ、当時この地区の墓地であった一画に埋葬されたところです。そして、この偉大な音楽家の死を最も深く悲しんでいたのは、当時31才だったシューベルトではなかったかと思います。教会での告別ミサから終始楽聖の棺に寄り添い、その重さを十字架の重さのごとく心に刻み込んでいました。あるいは近々訪れるであろう自身の死の予感を彼はその時すでに感じていたかも知れません。

果たして翌1828年11月19日、シューベルトは32才という若さでこの世を去って行きました。その死の前夜、朦朧とした意識の中でフランツは兄フェルディナンドに[自分が死んだら、ベートーベンの側に埋葬してくれるように]と言い残しています。そして、遺族が万難を排して作ったシューベルトの墓が右側の墓です。そこには彼の友人たちが捧げたシューベルトのブロンズの胸像も添えられています。そんな経緯を知ってか知らずか、その60年後の市の区画整理の際、二人の音楽家の遺骨は中央墓地に移され、そこに新たな墓標が設けられたのでした。つまり、現在公園の中に残っているのは、元の墓標だけで、墓の中は空っぽなのです。
『不粋な話ですよね』
『‥‥‥‥』
『人の歴史なんて、こんなものなんでしょうかね』
『‥‥‥‥』
などと、私がほとんど一人で喋りながら、2年前の夏ウィーンに来られていたある日本人作曲家とヴェーリンガーシュトラッセ界隈を散策した思い出が、昨日のことのように思い出される氏の書簡の一部を引用させて頂いて、今回の散歩の締めくくりといたしましょう。

[…シューベルトの生家、エロイカハウス、更にはあの市民たちが安らぐ、街の公園の一角にある二人の楽聖の墓。あれは驚きであり感激でした。二人への現代人的な称賛を現わすには、中央墓地の栄光の墓場も結構ですが、元の墓を見た後はどこかそらぞらしく、二人の楽聖を失った当時の人々の悲しみを現代人が分かつには、やはりハイリゲンシュタットに赴く途中でお参りしたあの墓でなければなりません。遥か日本におりますと、彼らがあまり偉大であるだけに人間としての実存に迫れるような実感抜きで考え、感じて参りましたが、二人の天才性はともかく、わたし自身の隣人のように身近な人達と思えたと書いたとしても彼らに失礼には当らないでしょう。こんな思いをより確かにしてくれたのは、言うまでもなくハイリゲンシュタットのあの散歩道でした。勿論わたし自身日本の田圃道を想像していた訳ではありませんが、あの散歩道を思い返しながら第6シンフォニーを聞き直すことから帰国後の音楽生活を始めました。時差惚けの頭にあのベートーベンの銅像の顔が徘徊し、日本の時間に復帰するよりいよいよウィーンの時間に後戻りすることにためらいを感じています。
仕上げのホイリゲでの一時も忘れ得難い思い出です。白状致しますがあの時、わたしの頭はタイムスリップを起こし1800年代初めに戻っていました。ニコチン切れでふと自分に返るまで、わたしにベートーベンが乗り移ったような錯覚に囚われていました。暮れなずむウィーン郊外の夏、わたしの生涯の美しく不思議な思い出になるに違いありません。…]

2002年11月19日 記
M.OKAMURA



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