天声人語 朝日新聞2010年1月1日
通には異論もあろうが、パリ一番の小粋な場所はバンドーム広場だと思う。ナポレオン像を頂く円柱を囲み、名高いホテルや宝飾店が並んでいる。小雨の夕刻など、石畳に灯がにじんで大人の空気が満ちる▼近作で描いた画家笹倉鉄平さんは、「パリの持つ上品さ、高級感、エスプリ、気位の高さ、その何もかもを凝縮したような」と表現した。近くのコンコルド広場が太陽なら、ずっと小さく、しっとりしたこちらは月か。一角に、フレデリック・ショパンが39年の生を終えた部屋がある▼今年は「ピアノの詩人」の生誕200年だ。幼少期から、故国ポーランドでは「モーツアルトの再来」と評判だった。人柄ゆえか控えめな音で、鍵盤をまさぐるように弾いたとされる▼ショパン研究で知られた佐藤允彦さんは、曲調の本質の一つは「うつろい」だと書いた。「確かな表現の意志から始まるというのではなく、何げなく触れた鍵盤のある一音からショパンの心が開き、そこから音楽が始まり、確かな表現となって形を整えていく」▼自在に流れる旋律は心地よい。あるプレリュードを聴けば、胃薬の宣伝を思い出し、腹も気分も軽くなる。広く愛されるあのノクターンは、どこか遠慮がちに移ろう調べで心を静めてくれる▼昼から夜想曲に浸りたいような、ささくれた時代を生きる私たちだ。ショパンに限らず、おのおのの「聴く薬」の二つ三つはそろえておきたい。大雪と満月で明けた2010年。太陽に元気をもらうより、月に癒やしを請う年になる予感がする。予感である。
 
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